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 98年6月に開催されたワールドカップサッカー・フランス大会の開会式に、四体の巨人が登場しパリの街を練り歩いたことを記憶されている方はどれぐらいいるでしょうか?

 99年初頭に発売された、サザンオールスターズのライブの模様を収録したビデオのジャケットでは、黒いビキニを着用した巨大な白人女性が足もとに群がる観衆の前で火を吹いています。発売日前後には原宿のラフォーレ前交差点に、ビルの壁面をいっぱいに使用した、ジャケットと同デザインの広告が出現し、道を行く人々の目をひきつけていました。 ワールドカップサッカーといえば世界的にも人々の最大の関心事のひとつですし、サザンオールスターズといえば日本のポピュラーミュージック界の大御所です。

これらのものを象徴するシンボルとして、また宣伝のためのイメージとして巨人が使用されたわけです。巨人が現代の人々にとって特別な関心を引き寄せずにはいられない存在であることを、このことは証明しているのではないでしょうか?

 私達は期せずして現代の街並みに巨人が出現したかのような、不思議な光景を見ることができたのですが、この光景を見た人々の心には果たしてどのような印象が残ったでしょうか?

 

 神話や民話には身長が数十メートルから数百メートル、ときには数十キロにも達するような巨人が登場することもザラでしたが、現代人の一般常識的な見地からすれば、そのような巨人の実在することが不可能であることは自明といえるでしょう。

 しかしそれでも、見る者を圧倒させてしまうその姿、その光景を思い浮かべることは、なかなか愉快な想像といえるでしょう。

 

 1970年に「少年キング」に連載された石川球人の漫画『巨人獣』や、人気エンターテイメント小説作家・楡周平の98年の作品『ガリバー・パニック』は、もしも現代日本に巨人が出現したらどうなるか? という想像を徹底して突き詰めていった作品です。

 両作品とも、何らかの理由で身体が巨大化してしまった男が登場し、その対応に追われる人間たちの行動を描くという形式になっています。

 これらの作品では、なぜ身体が巨大化してしまったのか? という謎は、もちろんストーリーを牽引するひとつの材料になってはいますが、それほど重要な要素ではありません。

 むしろ作品の焦点は、常識では絶対にありえない不条理−巨人の存在−に直面したとき、人間はどのような行動をとるのだろうか? という部分にあてられます。

 物語は巨人の出現・発見にはじまり、マスコミの報道、警察・自衛隊の出動、政府の対応といったように続いていきます。ここまでは、特撮怪獣映画によくあるパターンと同様でしょう。

 しかし、それらの映画と『巨人獣』『ガリバー・パニック』には大きな違いがあります。特撮映画に登場する怪獣はたいてい、破壊行為の限りを尽くす悪者なので、人類もまた力をもって、これらの怪獣を殲滅させようとします。一方、相手が我々人間のサイズをスケールアップしただけの巨人である場合、そうはいきません。巨人は身体こそ巨大ではあるものの、それ以外の部分では我々人間とまったく同じです。感情や知性もありますし、そうとなれば人権も尊重されなければならないでしょう。単純に人類にとって危害となるので抹殺してしまう、というわけにはいかないのです。  

ここに、現代社会に巨人の登場する物語の面白さがあります。

不条理そのものを自らの身体で具現化してしまった巨人の心理描写はもちろん、大量な排泄物の処理をどうするか、食料の確保をどうするか、といった困難に直面しながらも、なんとか事態を収拾していこうとする人間のバイタリティには圧倒されます。

 たった一人の巨人の出現で、国家機関が対応せざるえないほどの事態になるということから、両作品は、国家と個の関係をデフォロメして描いた作品ということで共通しているともいえるかもしれません。

 一方、両作品には大きな違いも見られます。『巨人獣』が悲劇的な結末を迎え、人々の心に大きな影を落とすような作品であることに対し、『ガリバー・パニック』は巨人の出現を経済的なプラス効果として利用し尽くし、最後は何事もなかったかのような、あっけらかんとした結末であるという点です。この違いは、それぞれの作者の資質によるところであるのはもちろんですが、それぞれの作品が執筆された時代の世相の違いまで表れているような気がします。

 なんにせよ、両作品とも実際にはありえない不条理を、あたかも実際に起こったことであるかのように描く、作者の力業には圧倒されるものがあります。

 たとえフィクション作品であるとはいえ、巨人の存在を描くことの困難さは、実際に巨人が存在することの困難さに限りなく近いのではないでしょうか?

 

ではその、実際にこのリアルワールドに巨人が存在することの困難さ、について考えてみましょう。

 地上での生物の身長の限界は約12メートルと推定されています。太古の巨大生物である恐竜の化石にも12メートルを越えるものはありません。12メートルを越えると、自らの体重を、カルシウム質でできた骨が支えられなくなるためです。もしこれを越える身長の巨人がいるとしたら、骨が金属などカルシウム以上に強度のある物質で構成されていると考えなければなりません。

 また、巨人が人間と同じようにてきぱきと行動したとすると、恐ろしい質量を持った物体が実際にはありえないほどの速度で移動していることになります。もし巨人が存在するとするならば、我々人間から見た場合、とてもスローモーな動きに見えるほうが自然なのです。実際、ネズミはちょこまかと動き回っているように見えますし、象は大変ゆっくり動いているように見えます。

 これらのことは、ただそのように見えるというだけでなく、科学的な根拠があります。動物の心拍数は体重の4分の1乗に比例しています。大きい動物ほど、心臓はゆっくり打っているのです。また、動物の寿命も同じように体重の4分の1乗に比例しています。同じ哺乳類ならば、ネズミより象のほうが、はるかに長生きなのです。

 これらのことから、時間の流れは身体の大きさによって、ゆっくり感じられたり、はやく感じられたりすると考えることもできそうです。巨人はいったいどんな時間の流れのなかに、その身を置いているのでしょうか?

 このように巨人が存在するという仮定をもとに、ちょっとした科学的な推論をしてみるのも面白いでしょう。でも、少し退屈かもしれませんね。実際のところ、巨人の登場する作品最大の魅力は、こういったちっぽけな不可能性をねじ伏せて、巨人が存在してしまうこと、そこにあるのですから。

 『巨人獣』『ガリバー・パニック』以外にも巨人の登場する作品は数多くあります。

「巨人大全」の参考文献リストを見ていただいてもよいと思いますし、近々ブックガイドのページを設けますので、そちらのほうもぜひ参考にしてください。

 

 最近の巨人が登場する文学作品としては、先日第120回芥川賞を受賞した平野啓一郎の『日蝕』があげられるでしょう。この作品の舞台となるのは、ルネッサンス前夜の南フランスですから、「巨人大全」の第3回で紹介した『ガルガンチュア物語』が書かれた時期よりも、若干昔になります。

 『ガルガンチュア物語』は、ルネッサンスによって取り戻されたヒューマニズムの象徴として巨人が登場しました。『日蝕』は、その時期よりも昔、巨人が巨人学によってカトリック教会の権威の象徴だった頃を舞台にしているのです。

 『ガルガンチュア物語』以降、『ガリバー旅行記』や『ミクロメガス』では、価値観の相対性を表す尺度として、さまざまな大きさの巨人や人間が登場しました。今回紹介してきた『巨人獣』『ガリバー・パニック』は、巨人の存在によって人間の真の姿を逆照射しようとする試みといえるでしょう。

 このような流れの中にあって、なぜ、この1999年に芥川賞を受賞した日本の文学作品の舞台は『ガルガンチュア物語』以前のヨーロッパに逆戻りしたのでしょうか? 

 作者である平野啓一郎は、村上龍以降初めて、現役学生が芥川賞を受賞したケースとしても話題になりました。そんな若い作家が、ペダンティックな文体で中世ヨーロッパの神学僧を主人公とした作品を書くことも驚きです。

 『日蝕』は、主人公が太陽の光溢れる南フランスの地を訪れ、そこで様々な異端信仰と出会い、宗教的な超越を体験していく物語です。物語の後半、下半身だけで空を覆うほどの巨人が出現するという噂が村に拡がります。巨人は男女ふたり出現し、男は後ろから女と交わります。空を覆うほどの巨人の激しいセックスシーン……考えただけでも唖然としてしまう光景ですが、はたしてこれは何を象徴しているのでしょうか? 

 物語は、日蝕を迎えることでクライマックスに達します。日蝕とは、太陽が月によって隠されてしまうことで起こる現象です。太陽と月が重なったとき、作品中最高の超越体験が主人公に訪れます。この作品で、男女の巨人はそれぞれ太陽と月の隠喩として描かれているように思われます。

 作者の平野啓一郎は、作品のテーマについてインタビューにこう答えています。

「人間は肉体に潜む悪魔的(デーモニッシュ)な部分を、かつては宗教的な儀礼などを通じて体験し得た。非合理的なものを切り捨て、宗教はその力を失い、日常に堕したまま方向性を見失っているのが現代です。だからこそ、日常を生きるわれわれにとって、そのような体験が必要だと思うのです」(1999年2月15日 毎日新聞夕刊より)

 そして、「芸術鑑賞が人の心にもたらす超越的体験を文学を通じて実現させたい」(同)と語ります。

「巨人大全」は、ゲーム『巨人のドシン』で表現されようとしている世界について色々考えてみようというのが本来の趣旨ですから、この平野啓一郎の発言の「文学」の部分を「ゲーム」と読み替えてみてしまいましょう。

 図らずも、そこに飯田和敏というゲーム作家の作品に通底するテーマ、そこに肉薄するヒントが見えてきたような気がします。おお! やっと最終回らしくなってきました。ほっ。

 今回の「巨人大全」前半で紹介した二作品で、巨人は現代を舞台にしているがために現代人の合理的精神に絡めとられ、存在することすら危うくなっていました。これは読んでいただいた通りです。物語の最後に巨人は消滅してしまう運命しか残されていませんでした。

 『巨人獣』『ガリバー・パニック』『日蝕』とも、そこに登場する巨人は、現代人が失ってしまった、非合理的な領域にしか存在し得ない超越的体験を象徴しているのかもしれません。

 

 『巨人のドシン』に登場する巨人が、これらの文学作品、延いては、これまで紹介してきた神話や民話に登場する巨人の象徴するものを引き継いでいるかどうかは、わかりません。たとえ「巨人大全」が最終回であろうとわかりません。それはNINTENDO64DDの発売後、プレイヤー自身がコントローラを握って確かめてみるしかありません。

 

 現代のアメリカのもっとも刺激的な文学批評家といわれるレスリー・フィードラーの著書『フリークス』(伊藤俊治・旦敬介・大場正明訳)には、次のような一文があります。「身の丈一〇フィートになった自分を想像するのは、ドラッグによる狂いに狂った陶酔の中だけなのである」

 ちなみに現代の日本では、ドラッグで超越的体験ばかりしてると、国家機関によって逮捕されます。あたりまえですね。あっはっは〜。

 それはともかくとして、NINTENDO64DD用ソフト『巨人のドシン』は、どのようなゲームになるはずだったでしょうか? 当ホームページの「ドシンVSアタシ」を読んでみましょう。そこには、どんなゲームだと紹介されていましたか?

「電源を入れるとね、いきなり巨人なんだよ、君がね!」

 ウオォォォォォ〜きたきたきたァァァァァァッ!

 さて、ここまで「巨人大全」を読んできてくれたかたなら、すでに『巨人のドシン』が、とんでもないゲームソフトになることを予感しているはずです。

 あなたの予感は、きっと的中するはずです。

それでは、長いこと「巨人大全」につきあっていただき、ありがとうございました。

 じゃあね。

(サガラッチより ビーチにて)

 

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