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 前回までの「巨人大全」はヨーロッパの話題に偏っていましたので、今回からは他の地域にも目を移してみましょう。

 まずは私たちにとって一番身近な国、日本の巨人の紹介です。日本にもたくさんの巨人民話が残っていますが、その中でもダイダラボッチは最も知名度の高い巨人といえるでしょう。皆さんのなかにも、子供の頃に童話や絵本、教科書などで読んだことがあるのを覚えている人もいるのではないでしょうか。

 

 ダイダラボッチ伝説は関東を中心に広域にわたって数多く分布していますが、どの伝説の内容も、おおまかにいくつかのパターンに分類することができます。

 まず、ダイダラボッチの歩いた足跡が窪んだところに雨水が溜ったり、水が湧いたりして池や沼になるパターン。もちろんダイダラボッチが意図的に湖を掘る場合もありますし、掘った土で海を埋め立てたり、山をつくることもあります。ダイダラボッチが小便をすれば、流れたあとがになり、大便をした場所は肥沃な土地になり農作物がよく収穫できるようになります。

 

 山をつくる場合には意図的な場合を偶然できてしまう場合があります。富士山ほどの高い山は意図的に土を盛ったと思われますが、他の低い山の場合、土をもっこ(棒の両端にかごをぶらさげた天秤のような道具)で運んでいる途中、棒が折れたために、その場所に山ができたとか、下駄や足の指の間にはさまった土がこぼれてできたというパターンもあります。

 頂上が平らな山の場合、最後の一盛りを盛る直前に朝がきて間に合わなかった(昼間は体が溶けてしまうという言い伝えもあります)とか、腰をかけたからだとか、またごうとしたとき睾丸がひっかかって削れたとか言われます。山に腰掛けて何をしていたかというと、何キロも離れた海や川などで足を洗ったり、お弁当の握り飯を食べたりといった具合です。

 

 ダイダラボッチにちなんで名付けられた土地名も、各地に残っています。例えば「洗足」や「ダイラ淵」といったような土地名のある場所はダイダラボッチ伝説が残っている可能性が高いでしょう。また、東京杉並区には「代田橋」という駅もありますが、この地名の由来は、昔そこにダイダラボッチが架けた橋があったからだということです。

 

 さて、ダイダラボッチは、どうして山をつくったり、湖を掘ったり、海を埋め立てたりしたのでしょう? 一体彼は何者で、どこからやってきたのでしょう?

 千葉県の民話では、ダイダラボッチは東京湾を跨いでやってきたと言われています。そして、向こうに見える富士山を、どういうわけかとても気に入っていたようで、近くに引き寄せようとして藤つるで引っ張りますが、藤つるはダイダラボッチの髪の毛より細くて、ちぎれてしまい、失敗します。怒ったダイダラボッチは神奈川県相模原付近の藤つるをすべて引き抜いてしまいました。それ以来、相模原台地には藤つるが生えなくなったといいます。

 

 では、東京湾をはさんで千葉県の向かい側、神奈川県やその隣の静岡県には、どのような巨人伝説が残っているでしょう? ここでもデエラボッチやダイラボウなどと呼び名に変化があるものの、ダイダラボッチと同一と思われる巨人が活躍していました。ここでも様々な地形を残したダイダラボッチですが、何といっても一番の大きな事業は日本一の高さをほこる富士山をつくったことです。彼が、富士山をとても気に入っていたのは、そのためなのですね。

 ところで、富士山ほどの山をつくるには、相当な量の土を盛ることが必要だったと思いませんか? ダイダラボッチは一体、どこからそんなにも大量の土を調達したというのでしょう? その答えは滋賀県にあります。滋賀県といえば、琵琶湖。ダイダラボッチは、この日本一広い湖を掘って、その土を静岡県まで運び富士山をつくったというのです。また、滋賀県にはダイダラボッチが足をダァーン! とふんばったら、へこんだ場所が琵琶湖になり、そのぶん土が盛り上がった場所が富士山になったとの言い伝えもあります。

 

 このように各地の伝説をつなぎあわせていくと、ダイダラボッチがどこからやってきたのかがわかりそうです。ここまでの琵琶湖→富士山→房総(千葉県)という足取りから、西から東へ移動していったことが推測できます。調べてみると、呼び名に変化はあるもののダイダラボッチと思われる巨人の登場する伝説をもつ土地の西端は、滋賀県(ダダボシ)あるいは三重県(ダンダラボウシ)になるので、ダイダラボッチの故郷は、近畿地方の東寄りあたりなのかもしれません。

 滋賀県、三重県の東隣の岐阜県(ダダボウシ)、愛知県(ダイダラボチア)にも数は少ないですが、ダイダラボッチ伝説が残っています。ただし、岐阜県は滋賀県寄りの地域、愛知県は豊橋あたりに限られているようです。豊橋ではダイダラボチアは海から現れたことになっていますが、これは三重県でも共通しています。

 

 さらに東へと目を移しましょう。海沿いコースですと、豊橋から浜松、静岡(ダイラボウ)ときて、神奈川県へ入っていきます。内陸コースですと長野県(デイロッパチ、ズーダラボッチ)、山梨県(デーラボウ、レイラボッチ)と来て、埼玉、東京へと続きます。長野県や山梨県では山つくり、盆地つくりの伝説が主です。

 では、ダイダラボッチの東端はというと、千葉県ということになるようです。千葉県にはダイダラボッチが海の水を飲み干そうとして死んだという民話が残っています。また、長野県方面、はたまた唐の国や天竺に歩き去ったとも言われています。千葉県北部から茨城県南部にかけては筑波山に腰掛けて利根川で足を洗ったという伝説もありますが、茨城県には、これ以外にダイダラボッチ伝説が無いことから、ダイダラボッチは東北方面には足を伸ばさなかったと思われます。

 

 こうしてみると、滋賀県から一度太平洋側へ出て、海沿いに千葉県まで行き、その後西へ戻ろうとして長野県方面へ、という足取りが推測できます。ただ、一晩で富士山をつくったり、ひとまたぎで東京湾を渡ったりというほどですし、ダイダラボッチの足跡といわれている池や沼も足先も、膨大な数が広範にわたって広がっていて、てんでばらばらの方向を向いていますので、正確にどこからどこへ行ったというような議論はあまり意味がないかもしれません。ダイダラボッチは、思うまま、あちらこちらを散歩したとしか言い様がないでしょう。

 

 それはさておき、ダイダラボッチが何者で何をしようとしていたかという疑問はまだ残ったままですので、さらに考察をすすめていくこととしましょう。

 まずは名前に着目してみるのがよいかもしれません。地方によって呼び名に変化はありますが「ダイタラボッチ」という発音を基本として考えてよいでしょう。漢字表記の場合「大太良法師」や「大多羅坊」などとすることが多いようです。各呼び名で「ボッチ」にあたる部分は「法師」や「坊」になるわけです。ダイダラボッチは、お寺のお坊さんだったというのでしょうか? しかし昔から日本では男の子のことを「坊主」などと呼ぶこともありますから、それほど深い意味はないのかもしれません。

 では「ダイタラ」部分はどうでしょう? これには諸説があります。「タラ」や「タリ」といった音は、藤原鎌足(フジワラノカマタリ)などのように昔から身分の高い男性につける名前だったといわれています。これが変化して「太郎」という男性にたいしてつける代表的な名前になったと言われていますが、これはどうもダイダラボッチの名前の由来の説明とはなっていないように思われます。 

三重県では海坊主のことをタタラと呼び、ダイダラボッチの伝説と混同されている部分もありますので、ここに語源があるのかもしれませんが、依然として「タタラ」という音の出所は、はっきりしません。

 アイヌ語に語源を求める説もあります。これはアイヌ語で“小山”という意味の「ダイ」と“背負う”という意味の「タラ」から生じたという説です。また、台湾の伝説にある巨人・ダグラウの流入だという説、ギリシャ神話に出てくるタイタン族(巨人大全第一章を参照のこと)の流入だという説もあります。タイタンは「チタン」という種類の金属の語源となっていますが、日本では古来の製鉄所を「タタラ場」と呼びました(『もののけ姫』にもでてきますね!)。ここに何らかの関係があると考えてみるのもよさそうです。 ちなみに、日本語では悔しがることを「地団太を踏む」と表現することがありますが、これはダイダラボッチが悔しがったときに足をどたばたと踏みしめたことが語源になっているという説があります(もちろんその場所は窪んだり、池になったりするのでしょう)。

 どの説も、これだ! と確定するには決め手に欠きますが、どれも記憶に留めておくだけの価値はありそうな説ですね。

 

 それでは彼は、どんな姿をしていたのでしょう? 身長こそ、スネ毛でトンビが巣を作り、膝は雲の上というぐらいですから、とてつもなく高かったのでしょうが、姿形に関しては、人間と同様で、決して怪物のようだったわけではないようです。絵本などに描かれた姿では、衣服もまとっているので、その点でも当時の人々と同じだったと推測されているのでしょう。

 

 では彼は何者なのでしょうか? もし人間ならば、父母がいてもよさそうなものです。これについては、山梨県中巨摩郡に「昔日本の仁王と唐の伽王との間に生まれた子は、デーラボッチといって非常に大男であった」(『甲斐伝説集』)という言い伝えが残っています。仁王とは、お寺の門の両わきに立っている守護神のことです。ということは、ダイダラボッチは仏教の神様をルーツに持っているのでしょうか?

 そういえば、千葉県を立ち去った後のダイダラボッチは唐、あるいは天竺に行ったという説もありましたね。

 さて、ここでいきなり話しは九州と四国にとびます。前に、ダイダラボッチ伝説分布の西端は滋賀県、あるいは三重県と書きました。しかし、実は、九州と四国にもわずかながらダイダラボッチの伝説が残っています。

 九州には弥五郎という巨人がいて、ダイダラボッチとは別の巨人伝説の一代中心地なのですが、不思議なことに大分県、宮崎県あたりに限って“豊後の嫗嶽の麓で神と人間の美女との間に大太という怪力の童子が生まれた”という伝説が残っています。

 神と人間の間に生まれた子が巨人であったという説は、中世ヨーロッパの巨人学(巨人大全第三章を参照のこと)とも関連がありそうですが、日本で神といえば、国産み神話のイザナギノミコトとイザナミノミコトを想起せずにはいられません。この神の夫婦が巨人であったことは、読者の皆さんはお忘れではないでしょう?

 ダイダラボッチは、こういった神々の子供で、国づくりの仕事を受け継ぎ日本のあちこちを歩きまわっては、山をつくったり、湖をつくったりして地形を整えることを使命としていたのかもしれません。なるほど、滋賀県長浜市の伝承によると「むかし、神々が集まって国造りを相談され、まず日本一高い山と大きい湖を造ることに決められた」(『長浜の伝承』)とあります。

 なるほど! ダイダラボッチのこと大体わかったゾ! と、ここで手を打ちたいところですが、ちょっと待ってください。

 

 四国では高知県長岡郡にも大道法師の伝説が残っています。さきほどの九州の伝説もそうなのですが、これらの伝説が関東のダイダラボッチ伝説と大きく違う点は、ダイダラボッチが人々を困らせる悪者として登場し、退治されてしまうことです。高知の大道法師は顔を矢で撃たれ、大量の血を流し死んでしまいます。

 豊後にしても長岡郡にしても、太平洋に面しているので、ここから三重県に向けて、伝説が伝わる線がひけそうです。三重県のダンダラボウシは、美しい娘をさらっていってしまう悪者です。人々はダンダラボウシを追い払うために、巨大な草履をつくります。「これは誰の草履だ?」と尋ねるダンダラボウシに人々は「カチトカという巨人のものです」と嘘をつきます。そんなに大きな草履を履く巨人には、さすがに自分もかなわないと思い、ダンダラボウシは逃げてしまいます(三重県では、これを記念した「大草鞋祭」が毎年行われるそうです)。

 この他にも中部地方や関東地方では、ダイダラボッチに食べられてしまうから夜中は出歩かないほうがよいという言い伝えがあるにはありますが、千葉県や長野県では、むしろ人々を天災などから守ってくれるヒーローです。

 どうして同一の巨人が、こんなにも地方によって扱いが違うのでしょう? この謎を解く鍵は、九州の巨人、大人弥五郎(オオヒトノヤゴロウ)伝説の中にありそうです。

 

 さて、それはともかく大人弥五郎です。彼もダイダラボッチと同じように、あちこちに山をつくったり足跡を残したりしています。しかし、彼がダイダラボッチと違う点は死に様がはっきりと書かれている文献が残っているということです。

「大人弥五郎殿は上小川拍子橋に於て日本武尊御討ちなされたり」(『三国名勝図会』)……つまり、ヤマトタケルノミコトが弥五郎を退治したというのです。

 ヤマトタケルノミコトとは、日本の古代伝説に登場し、天皇の命令で熊襲(くまそ)や蝦夷(えみし)といった大和朝廷に対抗する勢力を討伐していった英雄です。彼の活躍は「日本書紀」や「古事記」に書かれています(ちなみにヤマトタケルノミコト自身も身長は3メートル以上あったといわれています)。

 これらのことから、大人弥五郎は大和朝廷によって滅ぼされた勢力のなかでの英雄だったことが推測できないでしょうか?

 ヤマトタケルノミコトは千葉県にも蝦夷を鎮定するために、やって来ています。このとき、ヤマトタケルノミコトの上陸を阻止しようと海神が海を荒らします。このときの海神はダイダラボッチのことなのではないか? と推測することもできそうです。

 数あるダイダラボッチの物語のなかでも、そのような仮説をもとに書いたと思われるお話が『千葉県ふるさとの昔話』に収録されています。決して大胆すぎる仮説とは言えないのではないでしょうか?

 

 この他にも「日本書紀」「古事記」には神武天皇に滅ぼされた先住民族のリーダーが長髓彦(ながすねひこ)という巨人だったというエピソードもあります。

 かつて神の一族だったものが、邪魔になったとたん追放されるというエピソードは世界各地の神話に見られるパターンですが、日本の巨人伝説からも同様のパターンが読み取れるのではないでしょうか。    

 

 それではダイダラボッチ、大人弥五郎以外の日本の巨人伝説を見ていきましょう。「五郎」とつくのは、九州の巨人の特徴のようで、佐賀県や長崎県では「ミソ五郎」と呼ばれる巨人の伝説があります。ミソ五郎は味噌を腹いっぱいなめると、どんなに大きな力でもだせるのでミソ五郎と名付けられたようです。 

宮崎県では弥五郎は三人兄弟だったともいわれています。その名も弥五郎、弥次郎、弥太郎です。不思議なことに、滋賀県には伊吹山をつくった伊吹弥三郎、秋田県にも弥三郎という巨人がいたそうです。もしかして、彼らも弥五郎の兄弟だったのでしょうか? 

 

 名前に数字がつく巨人は他にもいて、秋田県には三九郎、青森には八の太郎がいます。八の太郎は青森県で十和田様という神様と喧嘩して、秋田方面へ逃げてきて、八郎潟を掘り、そこの主となったそうです。

 この他、秋田県、福島県、長野県に手長足長、群馬県に百合若大臣、京都府に愛宕法師、岡山にさんぽ太郎、高知県に鉄巨人などの伝説があります。

 また、巨人には固有の名前がついていない場合もあり、ただ大人(おおひと)と呼ぶことも多かったようです。これは秋田県では「おおふと」九州で「うーしと」など、地方によって発音に変化があるようです。

 

 弁慶もまた、巨人のひとりとして数えられ、日本各地にその足跡とされる場所があります。他の巨人伝説は「日本書紀」「古事記」編纂以前の古代神話時代にルーツがあるわけですが、弁慶の足跡は鎌倉時代以降のものになるわけです。しかし、これは、特に誰の足跡とも言われていない窪地を、後の時代の人々が弁慶のものということにしたと思われます。

 

 日本にはまだまだ紹介しきれていない巨人たちがいるのですが、今回はここまでにしておきましょう。

 次回は現代の巨人をドシン! と紹介しちゃおうと思ってます! それでは、またね!

 

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