・師匠話
(電撃NINTENDO64 1997年9月号)
(飯田和敏)
宮本茂さんに会った。任天堂へと向かうタクシーの車内。カーラジオからは倍償千恵子の歌謡曲が聞こえてくる。タイトルは知らない。過剰なまでにビブラートを効かせ、感情を込めてゆったりと歌い上げる倍賞千恵子。車窓に流れていく京都千年古都の町並み。そして、蝉の声(これは空耳)。そんな情緒溢れるシュチュエーション中で、僕は宮本さんと初めて対面した時の事を思い出していた。かつて、「任天堂電通ゲームセミナー」というゲーム制作の講習会があり、僕はそのセミナーを受講していた。そこでの話だ。その時、宮本さんから受けた衝撃が現在、僕がゲームを作っていることに繋がっている。
5年程前のこと。僕は美術大学に通っていて毎日油絵を描いていた。油絵は湿気の多い日本の風土には向いていない。絵の具がなかなか乾燥せずとても扱いにくいからだ。僕はせっかちなタチでどんどん描いていくタイプだったから、絵の具が乾くまで待ちきれなくて、すぐに上から塗ってしまう。おかげで、絵がいつもグッチャグチャになってしまうのだった。そんな悩みを抱えていた時、マッキントッシュというパソコンに出会い、コンピューターで絵を描くことにのめり込んでいった。
その頃は、音楽や美術といった表現の世界に対して漠然とした憧れがあったのだけれどもゲームを作ることにはそれほど関心がなかった。「任天堂電通ゲームセミナー」には「うーん、ゲームいいかもね?」位の軽い気持ちでエントリーしていただけに過ぎなかった。とは言うものの、ゲームを遊ぶことは結構好きで、なぜなら、インベーダーの洗礼を受けたTVゲームチルドレンですもの、死ぬほどゲームが大好きっていう訳ではなかったけれど、高校生の時にやったファミコンの『スーパーマリオ』は黒板がスクロールして見えるまで熱狂したし、アーケードの『ゼビウス』にハマって、朝になるまでゲームセンターに居た事もあった。それ以降も『ドラクエ』『テトリス』などのブームになった代表的なゲームは一通りやっていたし、ゲームボーイやスーパーファミコンは発売日に手に入れた。PCエンジン、メガドライブだって買った。それでも、僕の中でのゲームのポジションは、いろんな遊びの中の一つという程度で、まさかそれを仕事にするとは思っていなかった。
「任天堂電通ゲームセミナー」のカリキュラムは、まず最初の半年でファミコン・ディスクシステムの講習を受け、そこで基礎的な技術情報を知り、その後、数人でグループを組み、実際にゲームを作るという一年掛かりのものだった。その中間に自分の企画をプレゼンテーションするという機会があり、その特別講師が宮本さんだったのだ。
当時僕はゲームのおもしろさはその殆どがモチーフによるものでそれがおもしろおかしければまあまあいいゲームになると思っていた。素材至上主義?そんな僕が考えたゲームは『吸血鬼』。ドラキュラが主人公で、娘を襲って生き血を吸っていく。ドラキュラは必要な量を採血したら眠りにつきネクストステージへ。次のステージは100年後の同じ場所。そうやって、だんだんと現代に近づいてくると、ドラキュラが望む血液(もちろん処女の血)は少なくなるので、結果、難易度が上がっていく。そんなふざけた内容のゲームだ。発表すると、審査員の講師たちは大爆笑(これは言い過ぎ、実際はクスクス笑い)をもって暖かく受け入れてくれたのだった。
しかし、宮本さんの反応は違っていた。彼はしばらく考えてからおもむろにファミコンのコントローラーを手に取りこう言った。「ボタンを“押す”と血を“吸う”か。このゲームのポイントは、正反対のベクトルを持った運動が結びつく事にある。これを実現するのは難しいと思うけれど、上手くいけばおもしろくなりそうやね。」
素材至上主義は簡単にくつがえされてしまった。そして、宮本さんの言葉から垣間見たゲーム作りの世界は僕が考えていたよりずっと奥が深くて、もの凄くワクワクするものだった。それ以来、僕は勝手に宮本さんを師匠と仰ぐことにして、それまでのゲームに対する不遜な態度を反省し、真剣にゲームを作ろうと決意したのだ。
それから5年後、僕をゲームの世界に導いた師匠と再会を果たした。今度は生徒ではなくクリエイターとしてだ。それが嬉しい。あの日以来、僕はずっと宮本さんを意識して来た。『アクアノートの休日』ではテーマを”散策”に絞り込み、それ以外の要素は排除した。「インタラクションの快楽に忠実であれ」という師匠の無言の教えに従ったのだ。『太陽のしっぽ』ではそこからちょっとだけゲーム的な方向にシフトした。「“裏マリオ”を作ろう」がスタッフ達の合い言葉だった。そして、これから作るゲームは僕の作品の中では最もゲーム性が高いものになるだろう。
畏れ多くて今まで口にすることはなかったのだが、勇気を出して言ってみよう。僕は宮本茂に近づくことが出来るのだろうか?それを試してみたい。それが、僕がNintendo64でゲームを作ることにした理由だ。
さて、最近の僕はN64DD用の新作準備に追われている。具体的には思い付いたアイディアをゲーム的な仕様に落とし込んでいくという作業をしている。ウンウン頭を唸らせているので、突如、狂乱状態に陥り、あらぬ事を書いてしまいかねない。そこで、フォロー役として一緒に仕事をしているガボンちゃんこと柴田賀盆に力を貸してもらうことに事にした。ガボっちは『エアーズアドベンチャー』(セガサターン/ゲームスタジオ)というRPGを作った兄さんで、サターン界隈ではチト名の知れたナイスガイだ。そして、彼の師匠は『ゼビウス』のあのお方なのだ!僕が宮本さんの弟子であるっていうのは想像上の事だけど、彼は本物。そこらへんどうよガボ。
(柴田賀盆)
はい、賀盆です。みなさんよろしくお願いしまーす!オイラ、わびんさんが新しい作品つくるっていうからのこのこやってきたよ。何かできることがあるんじゃないかなって。オイラ思い出しちゃったな、名作「まんが道」の一シーン。学校に絵のうまい男の子がいるってウワサをきいて、休み時間にそいつの席にいってみた。たちまちお互い認め合い、やがて一つの夢を目指して…みたいなね。オイラたち、ゲーム界の藤子不二雄だもんね。オイラはドラえもん好きだから、Fはもらった。わびんさんは魔太郎そのまんまだから、Aだね。最近オイラは思うんだ。クリエイターはクリエイター同士、リスペクトを持てたらいいよなーって。特に、影響を受けた先輩クリエイターたちにね。先にシーンを作り、オイラ達にゲームの可能性を感じさせ、やがて自分なりの考えを持つにいたらせてくれた人たちだもんね。藤子不二雄だって手塚治虫のボツ原稿を送ってもらってハナ息あらくなったっていうしね。フンガー!
あれは7年前、大学1年の初夏でした。実は、オイラも行ってたのです。「任天堂ゲームセミナー」に!わびんさんより1年前のことです。でも、オイラ逃げちゃったんですよ。なんでかっていうと、都会に出るのが恐かったとか、セガマークVしかもってなかったからとか、いろいろありましたが、「ディスクじゃいやでちゅ」だったのです。生意気でした、ごめんなさい。で、オイラはその足で、遠藤雅伸のいる、ゲームスタジオにTELしました。どこの馬の骨ともわからない学生に、寛大にも会社の出入りを許し、機材を勝手にいじくらせてくれ、さらに、おこづかいまでくれたのです!援助交際のはしりだったんですかね?ウソです。そしてオイラは師の傍らで、適当にウダウダしながら、ゲームの作り方を門前の小僧のように覚えていったのです。確か、『ファミリーサーキット91』(ファミコン/ナムコ)の制作時期でした。
今の3D時代なら当たり前なのかもしれませんが、たかが2Dのレーシングゲームを作るために、自動車工学の本を読み漁り、パラメータセッティングを緻密に繰り返す姿をみて、なるほど評価される作品を作るにはかような執念が必要なのだなぁと思ったりしました。